ある愛すべき男の残像

私は、田浦新一郎という男のことをどうしても書いておきたい。この数ヶ月、彼のことを書くべきか、あるいはこのまま伏せておくべきかと迷ったが、ことのほか親しくしていただいたことを幾度となく思い返し、胃の腑に存念を宿したまま今日を明日に継いでいくことを、どうしても潔しとしなくなった。

そもそも、彼のことをなぜ思い出したのかといえば、それはたまたま週刊誌の記事を目にしたからである。そこには、彼が現首相夫人の元夫であったことが報じられていた。私は、その記事を読んではいない。大方の筋立ては見出しから推察できた。

彼の前妻が日本の政治家と再婚していることは、彼の周囲の人間ならだれもが知っていたし、それはただそれだけのことで、いわずもがなの昔話であるはずだった。しかし、ささやかながら時の人となりかけたからには、彼がどのような人物であったのかを記すことは、意味のないことでもないだろう。ましてや彼は、1970年代から新世紀に至るまで、北カリフォルニアにその人ありといわれた名うてのゴルファーだったのだから。

二世仲間にシンと呼ばれ、在留邦人には新さんと愛称されていた彼は、サンフランシスコの日本食レストラン『蝶々』の若旦那だった。福岡出身の九州男児、学生時代は全日本クラスのテニス選手として活躍したといわれながら、彼はスポーツマンらしからぬ色白で華奢な体躯を有し、目鼻立ちがすっきりとした美男だった。

『蝶々』は平岩弓枝の「女の顔」の中にも登場する店で、当時のサンフランシスコでもっとも繁華なナイトスポットだったブロードウェーの人気店だった。まだ格安航空券もない時代であり、この店を訪れる日本人は、一握りのお金持ちか商社の駐在員がほとんどで、ときおり有名芸能人やスポーツ選手も見かけられた。例えば、映画監督のフランシス・コッポラも贔屓にしていた。

しかし、一番の常連客は石井ふくこ、橋田壽賀子ファミリーだったかもしれない。毎年、彼らと連れ立って池内淳子や長山藍子らが顔を見せ、後年は泉ピン子も加わっていた。新さんはいつも彼らに囲まれ、買い物や郊外へのドライブの際は、よきナイト役を務めていた。彼の美男子ぶりは、天草四郎の生まれ変わりなどと評されるほどで、女性たちには実によくもてた。

さて前置きが長くなったが、彼のゴルフの話をしよう。不世出の名投手である金田正一氏は、現役時代から名ゴルファーとしても広く知られている。その彼もまた、シーズンオフにはしばしばサンフランシスコに来訪し、新さんとの腕比べを楽しんでいた。

彼は前触れもなく飛行場から電話をかけ、
-今着いた、すぐにやるぞ。
と新さんを誘い出した。そして新さんはそのたびに、仕事を放り出して応じたのである。勝敗は互いの意地もあるので詳しくは述べないが、わずかに新さんに分があったと聞いている。ちなみに、当時の金田氏のハンディキャップは0とも1ともいわれていた。

新さんが、ゴルファーとして名を馳せた一番の理由は、その美しいスイングフォームにあった。まるでスローモーションを見るようなそのフォームは花柳流とも称され、打ち出される球も納豆が糸を引くように残像がしばらく目に残る芸術的なショットだった。とにかく、不得意なショットというものがなかった。

パーシモンのフェアウェーウッドはしばしばグリーンをとらえたし、バンカーショットは必ず1パット圏内に寄り、チップインは何度もライバルたちを嘆かせた。ただ唯一、彼自身が50センチほどのパットを「不得意種目」にあげていた。実際に、勝負を決めるはずのショートパットをよく外した。それが、彼のやさしさだった。彼は、実に多くの人から愛され、慕われ、敬われた。そしておそらく、彼が本当に不得意としていたのは、自分から女性を愛することだったのではないかと私は考えている。

廣川亜太郎(ひろかわ あたろう)
医療ジャーナリスト 1951年生まれ 横浜在住
全米生活25年、その間にゴルフ場支配人を経験、30代後半に北カルフォニア公認ハンデキャップ6
現在はハンディキャップ14。「スコアは、ゴルフの神の思い召し」が信条。

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